アーティスト・インタビュー
蒼いフィルムに風景を追って
鷺山啓輔
聞き手=小川希(Art Center Ongoing 代表)

■イメージ/素材/記憶

―― 僕は鷺山君の作品を学生時代も含めてかれこれ10年以上観てきたけれども、大学を卒業した頃から作品のスタイルが固まってきたような印象があります。具体的には、それまでやっていたアニメーションや短編映像などをあまり手掛けなくなり、インスタレーション形式の作品が増えていったよね。

鷺山 たしかに、大学時代は映像作品でも上映できるものをやっていて、そこから変えていこうという意識はあったけど、明快に「こういうスタイルでいこう」というのはなかったと思う。ただ、映像の中だけでいろいろな表現をすることに限界のようなものを感じていたというか、それはそれで面白い作品は作れるんだけれども、スクリーン以外のものも含めてそこから飛び出すような表現にしていったら、たぶんもっと面白い映像表現になるかなという思いがあった。

―― でも常に基軸には映像があった。

鷺山 そうだね。もっと変わっちゃっても良かったんだけど、いまだに映像というところだけがブレずに残っている。

―― やっぱり自分は映像だ、というこだわりがある?

鷺山 どのジャンルをやっている人でも同じかもしれないけど、やっぱりずっと飽きないし好きだという気持ちは強いかな。

―― 今までの過程で、映画という選択肢もあったと思うんだけれども、映像インスタレーションという今のスタイルで進んでいったのはどうして?

鷺山 どこかで自分の手の届く範囲で表現をしていきたいと思っている部分があって。今やっていることは出発点が個人で、制作過程で手伝ってもらうことはあっても、いちおう最後まで個人でできるものなので、そういう中でまずはやりたい。映画というのは、関わる人の数や企画を通すまでの時間や労力など、実現させるに至るまでの困難がたくさんあるから……。

―― 鷺山君の場合、制作を始める時は、カメラを持ち歩いて被写体を探すという感じではなく、何を撮るか決めてその目的地に向かうような感じでしょ?

鷺山 そうだね。写真で言ったら、大量にスナップを撮ってその中から何かを見つけるというタイプではなくて、やりたいことをイメージしてからそれを視覚/映像化できそうなところを調べて撮りに行くという感じ。たとえば『A Revolving Alpinist』(2004)の時は、山頂を一望できるところというのが先にあって、登山家と一緒に山に登って映像を撮った。それ以前はあくまでもイメージだけがあって、そこから場所を調べて撮影に行って、戻ってきて編集する段階で作品化するための筋道を見つけたり新たな要素を加えたり、という作業になっていくパターンが比較的多いかな。

―― イメージが何となくあって、それに近しい場所を探して撮影しに行ってみるという感じなのかな。

鷺山 そう。だから実際には没になる撮影もある。だけど大体その場で「これはいい」という感覚があると、作品としてもうまく成就することが多い。撮影した時にはなんでもなかったものが他の作品を作っている際に浮上してきたりすることもあるけど。

―― インスタレーションのパーツというか物質の部分もまずは映像ありきで決まっていく?

鷺山 そうかな。でも『B.V』(2005-)のシリーズなんかは、まず『Blue Velvet』(ボビー・ヴィントン)の曲のイメージが先にあって、それを視覚化するためにどういう映像を撮るかということを考え、それから本物の布を使ってみようという流れで考えていった。

―― イメージ – 映像 - 物質の間を行ったり来たりするんだ。そこにあるのは基本的には全部、架空の物語なのかな?

鷺山 うん。そういう意味では映画とかぶる部分があって、よく映画はフィクションだと言うけれども、確かに作られた物語としてはフィクションだけど、そこで撮ろうとしている画は嘘ではない。だからやろうとしていることとしては映画とも根幹は一緒かなと思っていて、ドラマ/ドキュメンタリーとか映画/アートというジャンルの相違はそんなに関係ないような気がする。いずれにしても、映像をパッと見た時に「あ、すごい」と思っちゃうものというのはあるから。それを編集の過程で見つけられればいいのかな。僕の作品ではいちおう、架空の人物の記憶とか経験が感じられるようにしているつもりで、観てくれる人とそこを共有できれば作品の中に入ってきてもらえるのかなと思う。

―― でも、それは鷺山君自身の体験ではないわけだよね?

鷺山 今までの作品を考えてみても、自分の実際の体験が出てくるということはないかもしれない。半年ぐらい前にハードディスクのひどい事故があって、東北旅行をした時に撮影をしてきた素材データが丸々飛んでしまって、残った記録としては「写ルンです」で撮った30枚ぐらいの写真だけになってしまったことがあった。それを見ても思い出すことはいろいろあるんだけれども、もう作品化することは難しい。だからやっぱり、自分の中での体験なり記憶があって、それと撮影素材の両方が揃っていないと作品化の土台は作れないんだということを実感して、すごくショックを受けた。

■ありのままの美しさ+χ=?

―― 映像には独特の魅力があるけれども、それがインスタレーションと合体すると、使いこなすのが難しくなるよね。

鷺山 それはとにかく難しい(笑)。

―― 鷺山君の作品は、映像・写真・インスタレーションと、すべてそれぞれ分割できる要素なのに、それをひとつにしようとしているから。

鷺山 それは無理だというふうに厳しく言われたこともあるし、その現実的な原因を考えれば、映像自体は映写されて暗いところに存在していて、写真や物は照明が当たっていないと見られない、それを一体ひとつの空間の中でどう見せるのかといった時に、やっぱりどうしても無理が出てきてしまう。だけど自分の作品は措いても、そういう作品でうまくいっているのはあまり見たことがないから、それでうまく見えてくるのをガッチリやりたいという思いがある。

―― 観る側も写真が好きな人は写真を観て映像が好きな人は映像を観てというふうに、それぞれの要素を好きなように楽しめばいいんだけれども、ただ、鷺山君が見せたいのはその全部が合わさった時の化学反応みたいなものなんだよね。

鷺山 まさにそこを求めています(笑)。

―― 作品の舞台となっているのは、山だったり洞窟だったり海だったりするけれども、やっぱり自然の風景からイメージが始まることが多いのかな?

鷺山 結局そうなることが多いね。そもそもあまり見たことのない風景というのを求めていろんなところに行っているんだけど、同時にその限界も感じていて。たとえば山ならば本物の登山家にならないと、実際には人が見られないような場所には行けない。そういう中で、冒険記なんかを手に取るようになって、そこから想像の世界で水中の洞窟の話に触れて陸上の洞窟ならば行けるということで足を運んでみたりしていて、見られない風景を見るために自分の身体でできるところまではいちおう撮りに行くという感覚がある。「そんな風景見たくない」と言われちゃったらそこで終わりな気もするけど(笑)、自分の中では作品を作るごとに新しい風景とか出来事とか、自分自身でも何か新しいものを知って、それを続けていきたいという思いがあるのかな。

―― それならいっそ冒険野郎になっちゃえばいいじゃん、というのは違う?

鷺山 冒険家自体はすごく尊敬しているけれども、冒険野郎になってしまうと自分が行くためにお金も家族も人生もすべてを費やすことになるし、(記録映像を)撮る人は連れて行くことになる。それはやっぱり自分の活動としては違っていて、それはすごくストレートに進んで行った最上級の結果という気がする。自分はあくまでも表現者でありたいということを考えると、自分にとって刺激のある場所は、たしかにあまり人が見たことのない風景ではあるけれども、そこで感じたことや調べてわかったことなどを表現の中に持ち込んでいかないといけないというか、そこに表現する意味みたいなものを自分の中で見出していないと、コンセプトとしては倒れていってしまうと思っている。

―― ただ、場所の特異性や面白さを探し求めていくと、実際に面白い映像が撮れた場合でも、それって自分の切り取り方というよりは場所自体が面白いのであって、誰が撮っても面白いんじゃない?と思ってしまうようなことはない?

鷺山 たしかに、制作を続けている過程でそういうことも感じるようになってきていて、以前はそれに表現でなんとか打ち克とうと抗っていた気がするんだけれども、最近はその辺の力がちょっと抜けて、少なくともそこにプラスする要素を何か見つけられれば大丈夫じゃないかというような感じになってきている。この頃は植物を育てたりもしていて、それがやたらに楽しいことに気付いた。植物の場合も、植物が持っているそのままの姿を大半の人は美しいと言う。作る美しさとは別種の美しさであるそういう美しさを、僕も普通に素直に感じてしまった。その辺から自分の撮ってきた素材に対してもなんか気楽になった部分があるのかな。ただ同時に、そこにプラスするものに対してはとにかく想像力=フィクションの力を使いたいという意識も強くなった。

―― たしかに、以前の鷺山作品には強く感じられたエロスとか女性性みたいなものはずいぶん稀薄になって、自然そのものの美しさが前面に押し出されているような印象の強い作品が増えたよね。何よりも、人が出てこなくなった。

鷺山 たぶんそれは、風景を求めているうちに、その風景と対峙する人以外は必然的に排除されていったんだと思う。だけど今回の作品には人物が出てくるんだよね。今回は暗い空間の中に明滅するスライドがメインになる作品なんだけど、それと人の話し声などの言葉が組み合わさっていくことで、作品の中だけではなく、観てもらった時の想像力まで含めてフィニッシュする作品にしたいと思っている。僕は今まで作品のすべてをコントロールしたいという完璧主義的な作り方をしていたんだけれども、今はそこに隙間を残していきたい。コントロールできないものは責任は持つけれども投げ放つというか、なんとか力を抜きたい。だけどそれがけっこう怖くて、実際はドキドキなんだけど(笑)。

―― また新しい展開を仕掛けているんだ。すごく楽しみに、期待しています。

(2008年12月11日、Art Center Ongoingにて収録)

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