「風景の獲得」

私は、ときおり何かしら忘れる事の出来ない風景に出会います。それらの多くは、旅中に出会う自然の風景で、あまり人の寄り付かない山、森、川、湖等の静寂さに満ちた場所です。その場所を、まず写真に収め、後に興味深いものは日記のような形で文章として自分の中に定着させていたりします。今回掲載した撮影日誌は、「A Revolving Floater」の制作の動機となったものです。その動機から始まる、作品の制作過程や思考について触れていきます。

制作過程を端的に言えば、撮影日誌が出発点となり、そこからその土地や湖に関するリサーチ、次に撮影(再びその土地を訪れる)、編集、音響制作、空間構成を経て作品として完成に至ります。本作は映像を主としたインスタレーションであり、日誌中の原体験を、展示空間に再構築しようと試みています。原体験は、五感によって獲得されたものです。それをまず、ビジュアル(写真)と言葉(日誌)で記録します。その記録のみで、その風景を再現する事は出来ません。素晴らしい風景に出会っても、写真や絵だけでその美しさを誰かに伝える事は、なかなか難しい。私にとって「風景を捉える事」は、言葉とヴィジュアルのみでは捉える事の出来なかった、本来そこにあったはずの「失われた感触」を取り戻す・探る行為です。そのために、制作過程の所々で、真摯に風景と向かい合う姿勢を大切にしています。そうして、風景から語るべき事物が導きだされ、うっすらと物語が構想の中に生じます。

この物語を私は大事にしています。その物語を言葉でいえば、「恐ろしく静かな湖面に、孤独に浮かび漂う事のはかなさ」という表現が近いように思います。投影される映像は、湖に入水するところから始まって、最後は、岸辺の林の上を旋回する鳥のシーンへと繋がります。すべてが湖面に浮かぶ何者かの主観的なショットで構成されています。作品を観ている人が、その主観の主となれればと考えています。物語は、語り手の存在があって成立します。本作の語り口は、託宣のようでもあります。人に取り憑いた霊がその経緯や怨念を語りだす。そうしたのは、湖面を漂う不穏な空気を、ある瞬間、霊的なものに感じたためです。早朝のまだ暗く黒い湖の方がその雰囲気は顕著で、暗闇は人を不安な気持ちにさせ、また想像の余地を拡げるのだなと実感します。こういった不穏なシーンを通り過ぎると、ちょうど、朝日が昇り始め、輝く湖面の表情が映し出されていきます。この湖面の2つの表情のうつろいが物語を予感させるものであり、そこに風景のもつ幽玄な美しさが隠されています。

また、投影形式も重要な要素です。これは、私の他の作品にも共通しています。映像自体の存在感を高めようとする試みです。本作ではフローター(釣用の人が乗れる浮き輪)にのって自由に湖面を移動し、軽く浮き沈みを繰り返します。そうした視界と身体感覚の「浮遊感」を表現するために、回転式の投影方法をとっています。プロジェクター自体が自動で回転します。真っ白で無機質なギャラリー空間内の壁を、ゆっくりと水面の映像が移動する。そこに2、3分間留まって映像を観てくれれば必然的に、平衡感覚が乱され酔ったような気分に。それが、浮遊感へと繋がります。撮影中湖面を移動していると、水中の足に沈んだ流木が当ったりして驚かされました。その流木は、床に設置しています。撮影時に使用していたフローターも、映像の湖の水位と同じ高さに設置。展示空間自体がその湖であるかのように感じます。こういった立体物が入り込む事で、身体感覚の変化や空間的な錯覚が生じ、それが映像自体の存在感を際立たせればと考えています。

ここ数年来、このような過程を経て「出会った風景」を映像インスタレーションとして再構築する作品を制作してきました。ナレーションをつければ、ドキュメンタリーとしてより明確に伝える事が可能なのかもしれませんが、あまり意味を見出していません。私は、海洋・山岳ドキュメンタリーが好きです。冒険記や実録集にも、深く感銘を受けたりします。ドキュメンタリーの中で出会う風景の価値は、新鮮さであり、誰も観た事のないものを疑似体験する、または知識として得る事です。だからこそ、20世紀のドキュメンタリー作家や民族学者達は、前人未到の地へと足を踏み入れました。世界中いたるところに、カメラが潜入し、映像記録と研究成果が公開され評価されてきました。しかし、冒険の時代は終焉を迎え、現在は当時のような価値を見出しにくくなってきているように思います。この点で私は自身の体験を映像化する事へのひとつの限界を感じています。私は冒険家ではないし、その立場から風景を語ってしまう事には注意を払っています。むしろ興味があるのは、映画の中での風景の登場、表現方法にあります。映画の中で出会う風景は、そのシーンが訪れるまでに、様々なシークエンスを通過します。それらは、物語の内容、登場人物の感情等、多重の層の積み重ねによって、風景のもつ価値を獲得しえます。また、その逆も存在します。冒頭の風景が、映画の結末を思わせるような周到な構成を確立している映画も多く存在します。コーエン兄弟の映画「ビッグ・リボウスキ」の冒頭では、球体状の枯れ枝がのんびりと風に吹かれながら荒野を転がっています。町を通過して、誰の目に触れる事もなく、美しく輝く海辺の砂浜へと辿り着きます。本編の一件脈絡のない事件とその積み重ねによって発生する奇跡に満ちた結末を暗示させます。リンチの映画「ロスト・ハイウェイ」の冒頭では、ただひたすら、黄色く怪しくぶれながら猛スピードで流れていく車道のセンターラインが、映し出されます。映画全体に漂う「一寸先は闇」的な、日常の中に突然不可解な出来事が起こる恐怖と緊張感が、見事に集約されています。非常に秀逸な映像表現として記憶しています。

私の作品は、自身の風景に関する体験から出発する点において、ドキュメンタリー的な面があります。それが制作過程の中で物語性を持ち、立体物・音響と組み合わされインスタレーションとなり、映像特有の時間軸を持ちます。映画の冒頭のように、断片的にイメージを繋ぎ合わせる事によって、その裏に隠されている物語を表出させる。予感させる。それが、作品をみてくれる人達それぞれの感覚を通して「映画的な風景」へとなり得れば、幸いです。

鷺山 啓輔(αMプロジェクト・アニュアル・レポート2004「フリーズ・フローター」展より)

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