「美しい映像、不穏な情景」

鷺山啓輔の作品「フリーズ・フローター」のイメージを見て、不穏な風景だなあと思う。話を聞くと、案の定、そこは千葉の山奥のダムで、少々不吉な場所なのだと言う。その場所の所以が彼の制作の動機なのではなく、美しい風景、ことさら水につきまとう人間の不可知の力が、結果として不穏な影を写しとらせているようだ。

投影されるのは、釣りに使われるフローターに乗って湖面に浮き、撮影した映像だ。奥地まで入っていき、ふと人気のないところに来てしまったことに気づいたときの恐怖感。一瞬凍りつく、それを押し隠して釣りを続ける自分を、客観的に見ている自分、その二面性とギャップが込められている。「どこかへ行って、その場所の記憶を撮影して持って帰る」、体験と再体験が鷺山の作品の重要なファクターとなっており、鑑賞者も、気持ちの良い浮遊感と、ひんやりとした水の感触、といった身体的な感覚が呼び起こされる。

鷺山の映像は、立体との組み合わせによるインスタレーションの形式で展示されることが多い。投影される映像という非物質的なものにも、立体と同様の存在感を持たせようという試みである。そして鷺山が体験した場所、出来事、人との関係性を、鑑賞者が再体験するというか、かなり具体的に身体感覚を伴って想像できるような仕掛けをしているのだ。さらに鷺山自身が作曲しアコーディオンで演奏した音楽が流れている。映像を観終わると、まるで一本の映画を鑑賞したような、心が旅をしてきたような体験をしたことに気づく。

不穏さについて、デヴィッド・リンチの映画を思い起こすと鷺山に伝えたところ、好きな監督であるし、そう言われることが多いという。日常に潜む悪夢が記憶の境界線を越えてやってくる瞬間の、甘美な追体験の演出はリンチ映画の醍醐味であろう。映像を通して鷺山が試みる記憶と自己存在の曖昧さのヴィジュアル作品化は、境界を越えようとするところでリンチと同様の不穏さを帯びてくるのかもしれない。美しい映像には、どこかに不穏な情景が隠されていることを、私たちは知っているから。

児島やよい氏(こじまやよい/αMプロジェクト2004キュレーター)

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